自然な訳文を目指す第一歩: 『認知言語学的発想!英日翻訳の技術』

翻訳を学び始めたばかりの人は、ほぼ例外なく「訳文の自然さ」の壁にぶつかる。仮にも翻訳を仕事にしようと思うぐらいだから、たいていの翻訳者の卵というのは英語力にはそれなりに自信を持っており、作業に手を付けてしまえば何とかなるだろうと高を括っている。だが、いざ英文を日本語に置き換えてみると、どうしてもぎこちない響きの訳文になってしまうのである。実は、この壁は初学者だけがぶつかる壁ではない。翻訳者はキャリアを通してこの壁に挑み続けるといっても過言ではなく、経験を積んだ翻訳者でも少し難しい英文を訳すときにはこの壁の存在をひしひしと感じるのだ。自然さの壁と言うのはこのように巨大なものではあるが、取り付いていけるだけの基礎的な技術を習得することは、実はそれほど難しくない。正確に言うと、ある本の登場により少し前から格段に身に付けやすくなった。その本というのは、2020年に出版された『認知言語学的発想!英日翻訳の技術』(鍋島弘治朗、マイケル・ブルックス共著、くろしお出版)である。

著者は、関西大学の認知言語学者である鍋島弘治朗氏と、北カリフォルニアで翻訳者・講演者・英語教育者として活躍するマイケル・ブルックス氏だ。鍋島氏の認知言語学をはじめとする言語学の知見と、マイケル・ブルックス氏の実務的な視点とが組み合わさり、平易かつ自然な訳文を得るための基礎技術を習得できる好著となっている。

本書は全部で15章からなる。第1章・第2章はエピローグ的な位置づけだろう。まず、翻訳者に必要な知識や能力を紹介し、次にどのような翻訳が優れた翻訳かを定義している。続く第3章から第14章が本編で、自然な訳文を得るための技術を11のテーマに分類して紹介している。取り上げているテーマは、代名詞、数量、比較級・最上級、無生物主語、名詞句、順行訳、話法、レトリック、イディオム、肯定表現と否定表現、「は」「が」構文である。各章には演習と翻訳課題があり、練習を通して学んだ内容を身に付けられるようになっている。最後の第15章はエピローグである。単なる英日変換に留まらない意訳の例を挙げて翻訳の深さを語り、さらなる学習を促している。この章では参考文献も紹介されている。

この本の最大の長所は、取り上げているテーマの選択と、確かな学問的裏付けだろう。テーマはいずれも日本語と英語との違いを踏まえて選ばれており、実務の際に問題になる主な論点を網羅している。また、解説は平易でありながら言語学の学問的知見を引用しつつ展開されており、確固とした理論的基礎が感じられ、信頼性が高い。特に、レトリック、イディオム、「は」「が」構文の章には認知言語学と日本語学の知見が色濃く反映されており、類書に例を見ない内容となっている。こうした特徴により、本書は実務に通用する基本技術を身に付けるためのきわめて優れた入門書となっている。

本書にはさらにもう一つ、特筆すべき魅力がある。それは、英日変換だけでなく、いわゆる「意訳」の正しい方法も学べることである。第2章と第15章では、字面ではなく意味的に等しい訳文を得るための方法が、「深い翻訳」として簡単な図とともに紹介されている。これは翻訳論の大きな論点である「機能的に等価な翻訳」を認知言語学の観点から解釈したものだと思われるが、非常にわかりやすく、難解とされるこの概念の解説として出色の出来である。共著者である鍋島氏の面目躍如と言ってよいだろう。実務では英日変換だけでは対応できない原文にも遭遇することもあるため、機能的等価の概念を理解しやすい形で学べることは大きなメリットである。

近年の実務翻訳では、以前よりも訳文の自然さが重視されるようになっている。その背景には、機械翻訳の性能が上がったことにより人間の翻訳者に対する期待水準が上がったことや、広告・企業ブログ・PR文書などを翻訳する「マーケティング翻訳」や文化の差を踏まえて広告コピーを意訳する「トランスクリエーション」といった新しいニーズの登場がある。「意味さえ分かれば合格点」という時代が終わり、流暢さがますます求められている今の翻訳業界にあって、自然な訳文を得るための基本的な技法を平易な解説で学べる本書は、翻訳者の卵の必読書と言ってよいだろう。筆者自身も数年前からマーケティング翻訳に関わっているが、曲がりなりにも対応できているのは、この本に出会ったおかげだと思っている。翻訳の自然さに悩むすべての学習者に、自信を持っておすすめできる一冊だ。

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