よほど優秀な翻訳者でないかぎり、トライアルに十社~数十社程度応募しても、最終的に定期的な受注に至るのはそのうちのごく一部だ。ほとんどの翻訳者は、トライアル後に関係性が強まった数社の翻訳会社から定期的に仕事をもらう形で生計を立てている。「翻訳会社」と書いたが、もっとはっきり書けば翻訳会社の特定の担当者だ。そして、たいていの翻訳会社では、ソースクライアントごとに担当を決める方式を取っている。それゆえ、翻訳者は事実上数社のソースクライアントの案件を翻訳して生計を立てることになる。
ところで、それぞれのソースクライアントは、それぞれ独特の訳文の好みを持っている。スタイルガイドもあるのだが、それとは別に、よく使われる表現の訳し方や、好まれる訳文の雰囲気というものが確かに存在していることが多い。よく使われる表現の訳し方というのは、例えばメールの始めと終わりのあいさつ文の訳し方などだ。訳文の雰囲気というのは、少しカジュアルだったり、理知的だったりといった感覚的なものだ。こうしたクライアントの好みに合った訳文を作ることができれば、担当者から高い評価を得やすくなり、継続受注につながる可能性が高まる。そんな方法があるのかと言われそうだが、使える場面は限られているものの、有効な練習方法は存在する。この記事では、特定のソースクライアントが好む訳し方を把握し、それに素早く慣れるための練習方法を紹介する。大手のソースクライアントの場合、翻訳会社がその特定のクライアント担当の翻訳者を選出し、プールしておくことがある。そのようなクライアントの担当翻訳者として選ばれた場合に使える方法である。
1. クライアントが合格水準に達したとみなしている案件の訳文とその原文を用意する。
クライアントの過去の案件の過去の案件の原文とレビュー済みの訳文を用意する。可能であれば、翻訳会社の担当者に提供してもらうのが一番よい。NDAを締結していれば「できるだけ早くクライアントに慣れたい」という理由なら提供してもらえる可能性は高いので、相談してみるとよい。クライアントからはメール、ヘルプセンター、ブログなど、さまざまな種類の案件が発注されているはずだから、よく発注される種類のものを2~3件程度ずつ提供してもらう。短すぎるとクライアントの訳文の特徴が出現する前に練習が終わる可能性があるが、あまり長いと練習に時間を取りすぎるので、200~1,000ワード程度の案件が良い。
翻訳会社の担当者に提供してもらえない場合や頼みづらいと思う場合は、自分で調達することもできる。ソースクライアントが非常に有名な会社である場合、ヘルプセンターや企業ブログの記事であれば、英語版と日本語版がインターネット上に公開されているはずである。それらを練習に使うことができる。英語版の記事をWordに貼り付けるなどしてカウントして、適当な長さのものを探し、見つかったら表示を日本語に切り替え、日本語があるか、また上手に訳せているかを確認する。問題がないようなら、その記事を練習に使う。
2. 練習用のWordファイルを準備する。手順は以下の通り。
- Wordを開き、横書きに設定する。[レイアウト] > [印刷の向き] > [横] で設定できる。余白も「狭い」に設定するとなおよい。
- 用意した原文をコピーしてWordに貼り付ける。
- コピペした原文を全部選択し、[挿入] > [表] > [表の挿入] を選択する。
- テキストが表になったら、表の左上の+を選択し、[表ツール] > [レイアウト] > [右に列を挿入] をクリックする。
- [右に列を挿入]をもう一度クリックし、3列の表にする。
- 準備した訳文をコピーし、3列の表の下の空白の部分に貼り付ける。
- 貼り付けた訳文のみを選択し、[挿入] > [表] > [表の挿入] で1列の表にする。
- 訳文の表を切り取って、3列の表の3列目に貼り付ける。このとき、列ごとに原文と訳文が対応していることを確認する。対応していないようなら、適宜調整する。
3. 原文を自分で訳す。1列目の原文を見ながら、行ごとに自分で訳し、自分の訳文を2列目に入力する。3列目の訳文はできるだけ見ないようにする。
4. 自分の訳文と準備した訳文を比較する。手順は次の通り。
- 3列目にカーソルを置いて、[表ツール] > [レイアウト] > [右に列を挿入]をクリックする。表に4列目が追加される。
- 自分の訳文と、準備した訳文を比較する。行ごとに、2列目の訳文と3列目の訳文を比べていき、気づいた点があれば4列目に記入する。頻出表現の訳し方、訳文のトーンなどに注意して読み比べる。
5. 準備した案件すべてに対して、上記の2~4の手順を行う。
6. 注意事項を抽出する。各案件のWordファイルの4列目だけをExcelファイルなどに抜き出して、注意事項をまとめる。このファイルは、そのクライアントに対する自分専用の「スタイルガイド」として機能する。クライアントが発注した案件に対応する際に、このファイルを参照してから着手する。
手順は以上である。このように、ソースクライアントの既存の案件を自分で訳してみて、自分の訳文をレビュー済みの訳文と比べることで、クライアント好みの訳文の特徴を抽出することができる。後は、抽出した特徴に合わせて訳文を作ることを心がければよい。手順6のように、抽出した特徴をまとめたファイルを作っておくと、アンチョコとして使えて便利である。上述の手順に加えて、余裕があれば準備した訳文の模写も行うとさらに効果的であるだ。私自身も、現在勤務している翻訳会社で大手のクライアントの案件に慣れるためにこの方法を使った。おかげで、比較的早くにクライアントの訳文の雰囲気をつかむことができたように思う。継続受注が見込める大きなクライアントの案件を担当する時は、ぜひ活用してほしい。
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