産業翻訳にはさまざまな分野があるが、どの分野でも「正確さ」と「読みやすさ」が重視される。どちらも大事だが、産業翻訳の目的は実務上の情報の伝達であるため、「正確さ」の方がより大切だ。どれほど訳文が読みやすくても、間違えた情報を伝えているのでは意味がない。この最も重要な正確さを確保するために必要なのが、「正しく読む」ということだ。だが、「正しく読む」ということは、翻訳を学ぶ過程ではないがしろにされることが多い。翻訳学校や翻訳の技術書で教えているのは、主に英日変換の技術であり、読解ではないからだ。読解については翻訳者の自助努力に任されているのが実状であるため、実務で読む英語を難しく感じたり、納品後に誤訳をよく指摘されたりするようなら、自分で読解力を高める努力をしなければならない。そして、読解力を高めるために最適なのが、大学受験の英文解釈の教材である。この記事では、翻訳者や翻訳者の卵に特におすすめの英文解釈の参考書『英文解釈教室 新装版』(伊藤和夫、研究社)を紹介したい。
この本の著者は「受験英語の神様」と呼ばれた故・伊藤和夫氏。受験戦争が最も激しかった1970年代・80年代に駿台予備校の英語講師として活躍した人だ。初版の発行は1977年。以来、英文解釈の最も優れた参考書の1つとされている。
この本は、それまでの英文解釈の方法に対する批判として生まれた。伊藤氏以前の英文解釈の参考書では、熟語、構文、文法に公式的に日本語訳をあてて原文を理解していた。いわゆる「訳読法」であるが、その場合、必ず頭の中で一度日本語に訳して英文の内容を理解することになる。だが学習の本来の目的は、英文を読んでそのまま理解でき、必要であれば訳すこともできる、という状態になることである。だから、日本語訳を介する読解には根本的な間違いがある、と伊藤氏は考えた。この間違いを是正するために伊藤氏が見出した方法論が、「構文主義」である。その概要は、冒頭の「はしがき」にある次の記述に見ることができる。
筆者が本書で試みたのは、英語を形から考える練習、つまり、英語を読んでいる限りそこから離れることができない基本的な約束を明らかにすることから出発し、その原則に基づいて英語の構造を分析し、読者と共に考えることを通して、英語を読む際に具体的には頭はどのように働くのか、また働くべきなのかを解明することである。
英文解釈教室 新装版(伊藤和夫、研究社)
ここから、この本の2つの特徴がうかがえる。1つ目は、文の構造のパターン化である。英語の文の大きな構造をパターン化し、各パターンに沿った読み方を練習すれば、読解の理想である「直読直解」(日本語訳を解さずに内容を理解すること)が可能になる、と伊藤氏は考えた。本書の構成もこの考えに従っており、Chapter 1からChapter 15の全15章は次のようになっている。
- Chapter 1 主語と動詞
- Chapter 2 目的補語
- Chapter 3 that 節
- Chapter 4 what 節
- Chapter 5 倒置形
- Chapter 6 同格構文
- Chapter 7 If… that…
- Chapter 8 意味上の主語
- Chapter 9 関係詞
- Chapter 10 修飾語の位置(1)
- Chapter 11 修飾語の位置(2)
- Chapter 12 比較の一般問題
- Chapter 13 比較の特殊問題
- Chapter 14 共通関係 Chapter 15 挿入の諸形式
以上を見れば分かるとおり、各章はいずれも、熟語や細かな文法事項ではなく、文全体の構造に関わる問題を扱っている。「構文主義」という呼び方もここから来たものと思われる。
もう1つの特徴は、訳し方ではなくて、英文を読むときの頭の働かせ方を教えようとしていることである。これは、「先を予測しながら読む姿勢」とでも言うべきものだ。たとえば、Chapter 1の冒頭では”In the house stands…” という倒置形の文を挙げて、次のように説明している。
(前略)部分的にしか与えられていないが、これだけの部分からでも、M(=修飾語)+ V + Sの文型(中略)となることが分かる。(中略)Inという前置詞は、「…の中に」という意味を持つほかに、the houseが主語でないことを示す働きをしているのである。(中略)英文解釈の第1課は、文にはじめて出る、前置詞のついていない名詞を、主語(主部の中心になる語: S)と考えて、これに対する動詞を探していくことである。
英文解釈教室 新装版(伊藤和夫、研究社)
このように、文の構造を早めに見極め、次に来るべき要素を探しながら読むことを教えている。これは、日本人が日本語を読むときに無意識に行っている読み方に近い。伊藤氏は、説明を通して、英語を読むときにも同じように読めるような頭の使い方を身に付けさせようとしている。
各チャプターは、さらに細かくセクションに分けられている。各セクションでは、初めに例文とその訳があり、次に伊藤氏が読み方を解説する。その次に例文よりも少し長い例題がある。これは読者が自分で解くためのもので、別冊に訳と解説が掲載されている。
本書に取り組むことは、翻訳者にとって3つのメリットがある。1つ目は、英文の読解が正確になることである。英語の文の構造に沿った読み方ができるようになるため、細部に捉われて誤読することが少なくなる。また、これはすべての英文解釈の本に共通することかもしれないが、読み間違いやすい例文が多く掲載されているため、係り受けなどに注意しながら慎重に読む習慣が身に付く。その結果、誤訳が少なくなる。2つ目は、英文の読解が速くなる。これは、英文を返り読みせずに、先を推測しながら頭から英語を読み下せるようになるため、また日本語を介して英語を読まなくなるためだ。3つ目は、複雑な文が怖くなくなる。本書には特に難しい英文が集められており、大学受験の最難関校のレベルを超えるとされている。ほとんどの産業翻訳の難易度も超えていると言われそうだが、だからこそ良い。この本を最後までやり切れば、その後は実務で出会う英文が怖くなくなる。
デメリットは、やはり難しいだけあって骨が折れることと、取り組むためにもある程度の英語力が必要なことである。本書に取り組むための時間は1か月以上は見ておきたい。また、買う前に本屋で立ち読みしてみて難しいと思うようなら、『ポレポレ英文読解プロセス50』、『英文読解の透視図』などのもう少し難易度の低い英文解釈本をクリアしたうえで挑戦することをおすすめする。
英文を正確に読む能力と言うのは、翻訳者に一番必要でありながら、なかなか教えてもらえる場所がない能力でもある。翻訳者を対象にした講座などもあるにはあるが、実戦に必要な読解力を身に付けるには、圧倒的に練習量が不足する。数万円単位の講座よりも、高くても数千円の受験参考書のほうが、コストパフォーマンスでも練習量でも優れている。そして、どうせやるなら思い切って一番難しいものを征服してしまうのが良い。そうすれば、実務でどんな案件も自信を持って引き受けられるようになる。読者の皆様には、この記事をきっかけに、英文解釈の参考書の最高峰である『英文解釈教室』にぜひ取り組んでいただきたい。
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