ロシア語通訳者として有名だった故・米原万里さんは、「不実な美女か貞淑な醜女か」という本を書いた。タイトルは通翻訳における直訳と意訳の二律背反を言い表したものだが、これには元ネタがある。「翻訳は女に似ている。忠実なときには糠味噌くさく、美しいときには不実である」という、ルネサンス期の格言がそれだ。こうした格言があるところを見ると、直訳が良いのか意訳が良いのかという現代でもよく交わされる議論は、500年の長きにわたって続いているらしい。これほどまでに根深く、翻訳や通訳の大家たちが様々な発言をしている問題に対して一介の無名翻訳者が何かを言うのは恐れ多いのだが、産業翻訳においては議論の結論がすでに出ているのではないか、と私は密かに思っている。その結論というのは、誤解を恐れずに言えば、「訳文は直訳に近い方が良い」ということである。
これだけだとあまりに説明不足で重大な誤解を招きかねないので、以下に補足をしたい。補足を読めばおそらく、ほとんどの翻訳者が賛同する(というより、「何だ、そんなことか」と思う)はずである。この議論で一番大事なことは、直訳と意訳という言葉を定義することである。これまでの直訳・意訳論争では、議論の前提となる用語の定義ということができていなかったために、あまり有意義な結論を得られなかったように思える。ここでは、「直訳」「意訳」のほかに「逐語訳」という言葉を付け加えて、次のように定義する。
- 逐語訳: 辞書の表現を用いて原文の単語を逐一目標言語に置き換えただけの訳。
- 直訳: 基本的な変換技法を用いて目標言語の発想に沿って原文を目標言語に変換しているが、原文言語に使用されている表現の意味はそのまま維持している訳。
- 意訳: 基本的な変換技法を用いるだけではなく、原文言語とは意味の異なる表現も用いた訳。
ここで言う基本的な変換技法とは、自然な訳文を得るための変換技術のうち、原文の表現をそのまま使用するもののことである。英日翻訳で言えば、代名詞や数名詞の処理、無生物主語の変換、畳み込み文の展開、順行訳と逆行訳、品詞転換といったものだ。
このように定義すると、「訳文は直訳に近い方が良い」という私の主張が、次のような意味を持っていることをお分かりいただけると思う。すなわち、「原文の表現の意味を保っていながら、目標言語としても自然に読める訳文が良い」ということである。こうしてみると本当に拍子抜けするような主張で、誰もが賛同する意見だと思う。ただ用語を適切に定義しなかったばかりに、意訳・直訳論争は何世紀も空回りをしてきたのである。
さて、ここでもう少し議論を深めてみたい。これ以降はもしかしたら賛否が分かれるところもあるかもしれない。私の主張は、「訳文は直訳が良い」ではなく、「訳文は直訳に近い方が良い」であった。これは、次の3つのことを意味する。すなわち、「逐語訳の訳文は修正して直訳にするべきである」、「直訳により得られた訳文が求められる機能を果たしているのなら、訳文に対してそれ以上の操作を加えるべきではない」、「訳文をどうしても意訳せざるを得ない場合、複数の訳文候補のうち、直訳に近いものほど良い」である。以下に詳しく説明する。
まず、「逐語訳の訳文は修正して直訳にするべきである」という主張である。これについては、少し補足が必要だろう。逐語訳を「辞書の表現を用いて原文の単語を逐一目標言語に置き換えただけの訳」と定義したが、もしそれだけでも十分それだけで目標言語として自然に聞こえるなら、それは「直訳」と見なす。つまり、厳密に定義すると、「辞書の表現を用いて原文の単語を逐一目標言語に置き換えただけの訳のうち、目標言語としての自然さを欠いているもの」が逐語訳である。このように定義するなら、逐語訳と言うのは、「目標言語としての自然さを得るために必要な操作が十分に行われていない訳」のことであるから、操作を加えて自然さを達成するのは当然のことである。産業翻訳においてよく言われる「商品になる訳文」というのは、正確かつ自然な訳文のことだからだ。
「直訳により得られた訳文が求められる機能を果たしているのなら、訳文に対してそれ以上の操作を加えるべきではない」という主張は、効率性と原文尊重という視点から導かれる。産業翻訳においては、品質もさることながら、作業効率ということも考慮しなければならない。必要な品質を最小限の努力で得るのが理想であるから、直訳で正確かつ自然な訳文が得られたのなら、それ以上の操作を加えて効率を下げるべきではない。また、必要以上の操作により原文の意味から乖離した訳文を作ってしまうリスクを避けるためにも、不要な操作は行うべきではない。
「訳文をどうしても意訳せざるを得ない場合、複数の訳文候補のうち、直訳に近いものほど良い」というのは、意訳が必要となる場合の主張である。意訳は、さきほど「原文とは意味の異なる表現も用いた訳」と定義した。意訳をする場合、原文の意味という枷が外れるため、訳文の自由度が高くなり、求められる機能を果たす訳文の候補が複数生まれる。そのうち、原文との意味の離れ具合が最も小さい訳文が最も良いと考える。これもまた、原文尊重という視点から導かれる主張である。
このように私が主張するのは、第一に、安易に意訳をすることへの戒めからだ。翻訳をしていているとき、原文の意味が分からないということよりは、意味は分かっているのだが適切な訳文が思い浮かばない、ということの方がはるかに多い。こんなとき、翻訳者は意訳に走りがちになる。しかし、腰を据えてじっくり丁寧に訳してみると、意訳しなくても直訳で正確かつ自然な訳文が得られることが多いのだ。それどころか、そうして得られた直訳の訳文は、最初に作った意訳の訳文よりもたいてい正確性と言う点ではるかに優れている。つまり翻訳者は、意訳ができずに失敗することよりも、直訳しきれずに失敗することの方が多いのだ。
第二の理由は、クライアントの好みにまで合わせるのは非常に難しいからだ。直訳で得られた訳文に対して良かれと思ってさまざまな操作を加えたとしても、それが最終的にクライアントの気に入るとは限らない。むしろ、クライアントにより最終的に修正された訳文を見ると、単に好みとしか思えないような表現に書き換えられていることがほとんどだ。それならば、事前に分かっているクライアントの品質基準を満たす正確かつ自然な訳文が得られた時点で操作を加えるのを止めた方が、効率性という観点から理に叶っている。
以上の主張を別の言い方にすれば、「最小限の操作で必要な品質を備えた訳文を得るべきだ」ということになる。このように言い換えると、これは別に新しい主張ではなく、多くの著名な翻訳者の考えと一致していることが分かる。たとえば、「クマのプーさん」の翻訳で有名な石井桃子さんは、「翻訳というのは、外国の家に必要最低限のリフォームを施して住むようなもの」という意味の発言をしている。
石井桃子さんは翻訳をリフォームにたとえたが、自分ならばキッチンの汚れ落としにたとえるだろう。原文をシンクのステンレスとするなら、直訳はスポンジであり、意訳は金たわしだ。スポンジでこすれば落ちる汚れに金たわしを使ってはならない。金たわしを使いたくなったときも、本当にスポンジで落ちないか何度か試してみるべきだ。そして、やむを得ず金たわしを使うときは、シンクに残るひっかき傷ができるだけ少なくなるよう、可能な限り軽い力でこするべきである。
以上が意訳と直訳のバランスに関する私の仮説である。冒頭の美女と醜女のたとえを借りるなら、「不実な美女であるよりは貞淑な醜女であれ、ただし夫を不快にしない程度の化粧は忘れるな」と言うことになるだろう。ほとんどの翻訳に適用できる考えだと思うが、最近はトランスクリエーションなど、意訳を主とする翻訳も出現している。これに対しては別の考え方が必要であると思うから、また機会を見つけて論じたい。
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