社会人が翻訳の仕事に興味を持ったとき、一番最初に考えるのは「どうやって翻訳の勉強をすればいいのか」ということだ。一番良いのは翻訳学校に入学して通信または通学で学ぶことだが、「それほど金銭的な余裕がない」とか、「向き不向きを見極めてから本格的に学び始めたい」という場合もある。そんな時に第二の選択肢になるのが、書籍で翻訳を学ぶことだろう。今回は、上述のような様々な事情から翻訳学校に通わないという選択をした翻訳初学者の方向けに、英日翻訳の入門書を1冊ご紹介したい。『翻訳の布石と定石 実務翻訳プロへの道』(岡田信弘著、三省堂)だ。理系のバックグラウンドを持っていて、技術翻訳の道に進みたいと思っている人には特におすすめの本である。
著者は、サンフレア・アカデミー学院長の岡田信弘氏。50年以上の歴史を持つ日本の老舗翻訳会社サンフレアが運営する翻訳学校の校長が執筆した本であるため、内容の信頼性は極めて高い。堅固な基礎を確立するための第一歩には最適と言っていいだろう。
本文は全部で6つの章からなる。第1章「基本変換I」と第2章「基本変換II」では、直訳調の不自然な訳文を避けるための基本的な技術を解説している。 第3章「重要構文」と第4章「その他の操作」では、頻出する重要な構文の訳し方のほか、品詞転換、長文の切断、訳し下げなどの重要な手法を学ぶことができる。第5章「訳文の手入れ」と第6章「正確な解釈のために」では、日本語と英語の違いを踏まえた訳文の修正方法や、正確な解釈のためのコツが紹介されている。
この本の長所は、何よりもまず、英語を正確で自然な日本語に変換するための基本的な技術が網羅されていることである。この点で翻訳の入門書としての第一の要件を満たしているわけだが、他にも優れている点が多くある。解説は実際の案件で遭遇するさまざまなパターンを想定しており、丁寧かつ実践的である。また、各章はいくつかのセクションに分かれているのだが、セクションごとにまとめがあり、学んだことを整理しやすい。このまとめを利用して効率的に復習を行うこともできる。さらに、練習問題にも工夫がある。各セクションの最後に練習問題があるのだが、本の前半では既存の訳文を修正する問題の次に英文を訳す問題を解くという構成になっている。このため、徐々にステップアップしながら練習できるため、確実に技術を習得できる。もう1点付け加えるなら、最後の2章で英日変換のみならず読解の問題にまで踏み込んでいるところが類書にない特徴と言えるだろう。
逆に欠点としては、例文や練習問題の多くが技術系の英文であり、理系のバックグラウンドがない人にはとっつきにくいことである。逆に言えば、理系の専門知識をすでに持っていて、技術系の分野の翻訳者になりたいと考えている人にとっては、これ以上に有用な入門書はないだろう。
最後に、この本がきわめて実戦的であることを示すエピソードを紹介しておきたい。これは他ならぬ筆者の体験談である。筆者が初めて翻訳の仕事をしたのは、ある電子部品を製造する中小メーカーであった。派遣会社に登録したところ、当時英検準1級を保有していたため、たまたま紹介されたのである。この職場をあてがわれたときは、英語の勉強はしていたが翻訳は未経験だったため、どうしたものか途方に暮れた。だが、書店で偶然見つけたこの本を頼りに付け焼刃の技術で仕事を進めたところ、正社員の同僚から「読みやすい翻訳だ」と褒められるくらいの訳文は1か月程度で作れるようになったのであった。その派遣先の仕事は短期のものだったため2か月程度で終わってしまったのだが、その後、この経験を踏み台にして別の会社の社内翻訳者になることができた。この新しい職場でも、この『翻訳の布石と定石』は大いに役立った。新しい職場では、込み入った文章の特許を和訳することがたまにあったのだが、そんな難物もこの書籍で学んだ技術だけで何とか片付けることができた。このような経験から、技術翻訳の入門書としてのこの本の有用性と実戦性には、太鼓判を押せる。理系の専門知識を生かして翻訳に関わりたいと思う人には、自信を持って推薦できる一冊だ。
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